The Doors - Live at the Isle of Wight 1970

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The Doors - Live at the Isle of Wight 1970
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 ドアーズが記したロックの軌跡はかなり特殊な要素が多く、今に至るまで似たようなフォーマットのバンドは存在しないし今後も恐らく出てこないだろう。そもそもがベースレスで鍵盤奏者が代替しているバンド形態で、ボーカリストのカリスマ性が圧倒的でバンドの象徴にもなってしまっている点。そして歌詞についても魅惑的で難解な詩を紡ぎ出す造詣の深さを持つそれなりにインテリジェンスな側面を持つし、音楽面では初期こそブルースの模倣でしかなかったがキャリアを積んでいくと歌詞の物語に触発されてか、ジャジーな演奏を中心とした起伏に富んだ雰囲気をバックのトリオ演奏部隊が奏でるようになり、ひとつの短編映画が音楽付きで奏でられているかのような独特の展開を繰り広げていった。後期はそのカリスマ性や創り出すムードが失われていき路頭に迷う事にもなったが、シーンに登場してから1970年頃までのドアーズの展開は音楽的には革新的ではなかったが、やってる事は随分と生き急ぎそして進化していった。残念ながらボーカルのジム・モリソンが次第に我を失い、完成されたドアーズの姿は活動期間の大半で見られなかったが、アルバムに残された音楽を聴いている限りは実に妄想の膨らむ楽曲が多く、自分も含めて今でも多くの信者を持っている。その中には若くして原因不明で亡くなってしまったために神秘的な側面を持ち続けている要因もあるだろうが、大抵はドラッグの過剰摂取とされているようだ。

 ウッドストックにはブッキングされたものの出演しなかったThe Doorsが次なるイベントとなった1970年8月29日のワイト島フェスティバルには出演を果たし、以前から伝説になっていたがなかなか映像で見られる事もなく、そもそもワイト島フェスティバルの模様は録画されていた事は有名だったが市場には出て来なくて数多くのバンドのファンからしたら待ち続けるアイテムのひとつとなっていた。それが近年になり状況が変わって幾つものバンド名義でライブアルバムや映像がリリースされてきたので、ひとつの封印が解かれたかのように楽しんでいた。そしてドアーズについてもなかなかリリースされなかったが、2018年になってようやく「Live at the Isle of Wight 1970」として映像とCDと共にリストアされた決定盤アイテムとして出てきた。ワイト島フェスティバルの映像はどれもこれも暗い映像ばかりなので、ドアーズも他の例に漏れずに暗闇に近いバンドの姿を追う事になるが、かなり無理して頑張って明るく見えるようにリストアの努力をしている様子は見れるので、ひとまずのクォリティは気にしないようにしよう。

 冒頭の「Roadhouse Blues 」は実際ライブで演奏されている音源が使われているが映像ではイントロダクション的な使われ方をしていてライブ映像シーンが映らないのでどこかで映像トラブルがあったのかもしれない。それでもこういう形でライブ音源をきちんと残してくれたのは有り難い試み。そして映像ではライブ冒頭のシーンに繋がりヒゲモジャらのジム・モリソンの姿が異様に貫禄を放っているが静かに堂々とステージに向かい、バンドの演奏が始まる。バンドにとってはライブの肩慣らし的な意味合いも強いだろうブルースの王道曲「Back Door Man」から始まり、モロに初期ドアーズの香りをプンプンさせてのスタートだが、ジム・モリソンがあまりにも落ち着き貫禄ありすぎてロックバンドの様相はほとんど感じられず、また演奏チームもジャズ的プレイが強いからか曲調はブルースながらも到底ブルースにならない不思議、ユニークなスタイルは健在だ。続いての「Break On Through (To The Other Side) 」も同じくブルースの流れから出来上がっている曲だがレイ・マンザレクのオルガンが以前とは異なる音色でこれもまた不思議な質感に生まれ変わったかのように演奏されている。ここでも残念ながらジム・モリソンは覇気が無く、歌に集中していると言えば集中しているようだが、以前とは異なった雰囲気で調子の良し悪しなのかこういうスタイルがこの頃のスタンスなのかイマイチ掴み切れない。その妙な雰囲気を余所にバンドの、特にレイ・マンザレクとジョン・デンズモアは絶好調のプレイをバシバシと決めてくれるし、ロビー・クリーガーもやや素っ頓狂でもありながらギターを奏でてくれるので演奏チームは徐々に調子を上げているようだ。そして14分にも渡る「When The Music's Over」はいつもの事ではあるがこの調子でのプレイとなるとどうなる事やらと少々心配しながら聴いていると案外暗くならないし、ジム・モリソンも入り込まないし、どこか突き抜けた感のある歌にも聴こえて、バンドの調子の良さと合わせてみると意外とバランスの良いプレイになっているかもしれない。どっぷりとジム・モリソンの世界に浸り切っているのが好きなリスナーには物足りないとは思うが、そこを抜けたリスナーにはさらりと聴ける軽さ、そう、抜けた軽さがあるように聴こえる。ここでのロビー・クリーガーのプレイはいつもながらと言えばそうだが、果たしてどこの何のスケールと調子で弾いているのかまるで分からない不思議なパターンが聴けるので絶好調なのだろう。次の「Ship Of Fools」はアルバム「Morrison Hotel」に収録の楽曲なのでライブ登場が自分的には珍しい印象。初期の重さからは抜け出てひとつのターニングポイントとなった時期の作品だからか、他の曲とは受ける印象は異なるものの、ライブ的には悪くない出来映えだと思う。そしてこの次に本来は「Roadhouse Blues」が演奏されていたようだが、冒頭理由で曲順が変わっており、クライマックスの2曲へと突入する。まずは「Light My Fire」だが、正直言ってバラバラで初期の鬼気迫る一体感やカリスマ性などはほぼ皆無に近く、またバンドの演奏も息が合っていると言えばそうかもしれないが、曲のパターン、アドリブの展開がキメられているようで決まらない部分もあり、やや散漫な印象すら受けてしまった。ただ、それで演奏が悪いかと言うとそうでもなく、熱気は余りある程に響いて来るので面白い。ジム・モリソンの歌も詩もかなり控えめでそれを武器としていないようなスタンスで歌われているのはさすがにワンパターンでは行かないからか。同じように「The End」もあの鬼気迫る感は見当たらず、さらりと演奏され歌われ、そして幾つかの曲とメドレーで合わさり静かに終える意外な展開で物語が終わりを迎える。ただ、悪いかとなればそうでもない。これくらいテンション落としたジム・モリソンと熱気に包まれた演奏陣営のバランスが丁度良いとすら思えたし、バンドの仲も悪くないように聴こえた。

 ジム・モリソン時代のドアーズ最後のライブ映像として知られているが実際ジム・モリソンが世に別れを告げたのはここからほぼ1年後の7月なので悲壮感などあろうはずもなく、単純にドラッグで体調を崩しながらのパフォーマンス、それに加えて多々色々とバンドの方向性や音楽性や詩人としてのスタイルや生活そのもので行き詰まっていた時期とは何かの本や映画で見知った情報だが、それらを考え合わせればこういうライブへの取り組みも納得感はある。それでライブアルバムとしてどうだったかと総評を訊かれたら、絶対見聞きしないといけないドアーズのライブではない、とは言ってしまうだろう。それはやはり鋭く尖った時代の最初期のライブの方が全然圧倒的に素晴らしくロック的でカッコ良いからだ。ただ人間いつまでもそうはいられないのでこういうライブになっていくのも当然ではある。ロックスターにしてもミュージシャンにしても難しいところだろうが、記録として見れたのは良かったし、演奏陣営が素晴らしいのでそっちに持っていかれた部分も大きい。



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フレ
Posted byフレ

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