John & Yoko / Plastic Ono Band - Sometime in New York City

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John & Yoko / Plastic Ono Band - Sometime in New York City (1972)
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 少々前からアマゾンのあちこちでジョン・レノンの新しいベスト盤と思われる横顔ジャケットの「ギミ・サム・トゥルース」を見かけるようになり、ふと思えばジョン・レノン没後40年の節目だからかと思い当たる。自分的には子供の頃だったのではっきりと認識しておらず、ぼんやりと記憶に残るニュースでしかないし、まだジョン・レノンなる人物を知らなかったから記憶が結びつかないが、丁度この頃、そう1980年12月8日のニューヨークで悲劇の銃弾に見舞われたのだった。優れたミュージシャンが大いなる勘違いをしたファンの餌食になるなど全く解せない出来事だが、人の心と盲信は恐ろしいものだとも思う。そのジョン・レノンのオリジナルアルバムは幾つか当ブログでも書いているし、ビートルズも含めてそれなりに聴いているので気になるミュージシャンではあるが、実は本日チョイスした「Sometime in New York City」は以前から何度となく聴いていながらもかなり苦手な部類に属するアルバムで、以降そこまでの回数を聴いていないアルバムだ。丁度良い機会だからまた聴き直してみようかと手に取ってみた。

 1972年にリリースされたジョン・レノンの、と言うよりはジョン・レノンとヨーコ・オノのプラスティック・オノ・バンドによる「Sometime in New York City」で、アナログレコード時代は2枚組の作品だった。1枚目がオリジナル・アルバムで2枚目がライブアルバム。そこまでは良かったが、ジョン・レノンのみならず完全にヨーコ・オノとの共作になっているからかなり前衛音楽のセンスが散りばめられ、更にはさほど詳しくはないが歌詞的にも極左的反政府的にも映る内容だったようで、本能的にどこか危険信号を発するかのような歌詞が多く、苦手意識が更に高まった、と言うか聴いてても面白味を感じなかった。それでもジョン・レノンのアルバムだからと何度も挑戦したが、どうしてもヨーコ・オノの歌が目立つし、2枚目の最後のD面では完全にトリップした世界とも思える即興演奏が鳴らされているだけのようだったのでほぼ聴いていなかった。

 今回はその辺もアタマの中で整理して取り組み、まずはジョン・レノン単独の曲、そしてヨーコ・オノとの共作ながらもジョン・レノンがきちんと主役として登場する曲、そしてヨーコ・オノの曲、加えてC面のロンドンライブ、最後にD面のザッパとの共演ライブと区分して聴いてみたが、するとかなりすっきりとして捉えられた。ジョンの曲は当然ながらジョン・レノンそのままの作風とロックンロールが聴ける、言い換えると何も変わらないまま時代を意識する事のないジョン・レノン節そのままだ。だから聴きやすいし、馴染みやすいし、当然制作側も好むだろう仕上がりの曲ばかり。それでいて飛び出してくるのが「Woman is the Nigger of the World」や「New York City」、「John Sinclair」と言った佳作で、「Cold Turkey」のライブバージョンはより一層強烈に響いてくるし、同じようなニュアンスではD面トップの「Well (Baby Please Don't Go)」もかなりグレイトな感じで奏でられている。一方ヨーコ・オノの単独曲でも今聴けば割と可愛らしい声ですらあるし、そこまで尖った前衛的な歌だけでもなく、きちんと歌している作品もあり、抜き出して聴いてみるとひとりのアーティスト作品として聴きやすくなる。しかし相手がジョン・レノンではやってる方向性が異なるから比較できるものでもないが、明らかにセンスが違うし好みも異なってくるから悩ましい。だからこそジョン・レノンのアルバムに参加する事に意義があるし、ジョン・レノンがプッシュする意味もあって一緒にやってるのも分かるが、今の時代に聴くなら自分はそういう区分けした聴き方をしてみた。

 そしてC面の1969年12月のロンドンのライブは「Cold Turkey」ですら長尺に渡るライブアドリブ演奏大会にヨーコ・オノのシャウトが加わり、確かにビートルズ的R&Rと前衛合唱が重なる新しいサウンドの構築とも言えるが、美しさがないからあまり好まれない。自分もアプローチは嫌いではないが、ジョン・レノンがわざわざこの領域に入る必要性もなかったかなとは思う。もちろんジョン・レノンが進みたくて進んだ方向でもなく、流れに流されてみればこれも面白いアプローチとなった結果だとは重々承知ながら。更に「Don't Worry Kyoko」は全くヨーコ・オノの前衛的世界だけが中心に繰り広げられる16分間で、かなり辛い。この辛さが本アルバムにあまり手を伸ばさせなくなった理由のひとつだろう。続いてのD面トップは往年のブルース曲なので逆にザッパがブルースをプレイする姿なぞ聴ける事すら珍しいので、貴重なシーンとも思うが、以降はヨーコ・オノの出番とばかりの叫び声セッションで相当辛い。「Jamrag」と題された元々ザッパの「King Kong」もやはり「Jamrag」と題するだけあって前衛的シャウトの嵐が中心なのでザッパが生前このクレジットは寂しいと言っていても、この方が正解だと思う。「King Kong」なら聴こうと思うから、この流れだとちょっと厳しい。それ以降にしても単なるセッションと叫び声ばかりなので、そもそもボーナストラックとしてのライブ編集盤に期待を込めてもいけないのだろう。その意味では冒頭の1枚目のオリジナルアルバム部分をきちんと聴いている方が良さそうだ。

 そして次には概ね交互に配されているジョン・レノン曲とヨーコ・オノ曲をアルバム曲順通りに聴いてみると、何となく、安心感と不安感が入り混じってくるものの、相当に革新的なアルバムとして認知される意味合いが分かってくる。ただ、それでも好みのアルバムにはならないし、ここでのジョン・レノンの曲もそりゃ出来るだろうという感じの曲にしか聴こえないので、ヨーコ・オノの革新性前衛性の高さが更に突出して聴こえてくる。その意味ではヨーコ・オノは凄い。完全にジョン・レノンを食ってるしジョン・レノンの持つ人間的センスを超越した前衛センスで圧倒している。これをジョン・レノンがモノにしてしまったらとんでもない方向の音楽が出来上がったかもしれないが、そっちには向かわなかったのがジョン・レノンのバランス感覚。あまり好みではないジョン・レノン作品だったがこうして分解して取り組んで整理してみればどこか納得出来たし、アルバムの意味合いも何となく理解出来たのかもしれない。ただ、好きではないのは変わらないか。

 ちなみに知られている話だが、D面のライブは1971年6月5日のフィルモア・イーストで行われていたFrank Zappaのライブショウにジョンとヨーコが飛び入りした際の音源が本作に収録されており、ザッパ側では「Playground Psychoitcs」として1992年にフルショウがリリースされている。元々「Fillmore East-June 1971」でジョンとヨーコ部分以外はリリースされていたが、これがまた名作ライブ・アルバムだったので、突如ジョンとヨーコが参加してグダグダな前衛サウンドに彩られたザッパ側は良い迷惑だったのではないかとすら思う。





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フレ
Posted byフレ

Comments 2

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おっさん  
No title

ジョン・レノンが亡くなった時は、
ネットがない時代なので
朝イチにスポーツ新聞を買いに行きました。

2020/12/09 (Wed) 06:31 | EDIT | REPLY |   
フレ
フレ  
>おっさん

誰が何をどれだけ早く知ってるかでヒーローになった時代…

2020/12/12 (Sat) 20:08 | EDIT | REPLY |   

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